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ラピド (Rapido) はスペイン海軍の仮装巡洋艦。元は1889年に建造されたハンブルク・アメリカライン(en)の客船コロンビア (SS Columbia) であり、1898年に米西戦争で仮装巡洋艦とするためスペイン海軍が購入した〔Department of the Navy: Naval Historical Center: Online Library of Selected Images: Spanish Navy Ships: ''Rapido'' (Auxiliary Cruiser, 1898) 〕。そして、武装されラピドと改名されて、アメリカアジア艦隊撃破と4000名のフィリピンへの増援部隊輸送の任を負ったManuel de Camara少将率いるフィリピン救援部隊の一員となった〔 Nofi. p.168 〕。Camaraの戦隊は戦艦ペラヨ、装甲巡洋艦エンペラドル・カルロス5世、仮装巡洋艦Patiota、駆逐艦アンダズ、オサド、プロセルピナ、輸送船ブエノスアイレス、パナイ、アルフォンソ12世、アントニオ・ロペス、給炭艦4隻とラピドで構成され、1898年6月16日にカディスから出撃した〔 Nofi, p. 273 〕。 戦隊は1898年6月17日にジブラルタルを通過し〔 Nofi, p. 168 〕(カリブ海へ単独で向かうアルフォンソ12世、アントニオ・ロペスは分離された。)、1898年6月26日にエジプトのポートサイドに到着〔 Cervera's papers, p. 154 〕。Camaraは石炭積み替えの許可を求めたが、エジプトの中立に対する懸念からそれは6月30日に不許可となった〔 Cervera's papers, p. 154 〕。 Camaraの戦隊は1898年7月5日にスエズに着いたが〔 Nofi, p. 282 〕、そのときすでにパスクワル・セルベラ中将の艦隊はサンチャゴ・デ・キューバ海戦で殲滅され、サンチャゴ・デ・キューバを封鎖していたアメリカ艦隊が自由になっていた。スペイン沿岸の安全に対する不安から1898年7月7日にスペインの海軍大臣はCamaraの戦隊を呼び戻した〔 Nofi, p. 283 〕。そして、戦隊は1898年7月17日にスエズを離れてスペインへ向かい、1898年7月25日に戦隊は解散した8〔 The Spanish-American War Centennial Website: ''Pelayo'' 〕。 1898年8月に戦争が終結すると、ラピドは民間船に戻った。日露戦争中にはロシア海軍の仮装巡洋艦テレクとなった。 1907年解体〔Department of the Navy: Naval Historical Center: Online Library of Selected Images: Spanish Navy Ships: ''Rapido'' (Auxiliary Cruiser, 1898) 〕。 ==脚注== 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ラピド (仮装巡洋艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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